深海の底で息を

生きること死ぬこと

発作

 

また夜中に発作が出た。

今は落ち着いている。

 

深呼吸するのが一番効果的な気がするが、

フラッシュバックのように

元彼と行った場所の景色がパッと頭に浮かんで

それを引き金にして、

また酷い発作になってしまう。

 

引きつけのような呼吸になるし、

涙はボロボロ止まらないし

嗚咽も酷い。苦しい。

そんな時間が果てしなく続く

地獄のような気持ちになる。

 

しかし、落ち着いてみると、コロッとして

「何があんなに辛かったのだろう?」

となる。

 

どう考えても、何か発作的な

自律神経の乱れのような気がする。

お薬で緩和できる類のものだろうか。

 

人はああいった波が来てる時に

自死を選んでしまうんだろうな、と思う。

例えるなら、死神に強く脚を掴まれ

引っ張られて、暗い闇の中へ

引き摺り込まれそうになる感覚だ。

 

少し後になれば、

「なんだったのだろう」程度のものだ。

或いは本当に死神に憑かれている時間なのかも。

 

兎にも角にも、一昨日、

元彼の家に、荷物を取りに行った。

別れてから、実に5ヶ月経ってしまった。

 

覚悟を決めてからは、

不思議と落ち着いていたし、

いつも通りの道を、

あの頃と同じように運転して、

あの頃と同じスーパーに寄って、

彼の好きな食べ物をあれこれ選んで、

喜んでくれるかなあなんて

彼を思い浮かべながら、レジに並んだ。

 

マンションに入る時も、鍵を開ける時も、

あの頃と何も変わっていなくて、

まだ彼と続いてるような錯覚を受けた。

 

ドアを開けたら、

彼の生活がそのままそこにあって、

今朝脱ぎっぱなしにした洋服が

無造作に積まれていた。

台所には、洗っていない今朝の食器。

 

家に入ったのは約半年振りだ。

だけど、そこは時間が止まったように

何もかもそのままの風景だった。

 

でも、前回来た時と違うのは、

私はもう、彼の彼女じゃないってことだ。

今の私は、荷物を取りに来ることだけを

許されている、ただの他人だった。

そして、ふたりで借りたはずのその部屋も、

もうすでに私のものではない。

 

私は、ふたりの輝ける未来のシンボルだった

その部屋に久々に入って、

その場で耐えきれず、悲しくて咽び泣いた。

ふたりは別れてしまった、5ヶ月も前に。

その現実が、とても悲しくなった。

 

私の歯ブラシは彼の歯ブラシの隣にあった。

私が来るから、元に戻したのかも知れない。

だけれど、部屋はほとんどそのままで、

ただ掃除は一度もされていない感じで

部屋中、埃だらけだった。

 

綺麗だった洗面所も汚れていたし、

彼があの後半年近くひとり住んでいることを

物語っていた。

 

私の布団は、半年前と何も変わらず

同じ場所に畳んであった。

私のパジャマも、同じ場所にあって

その形のまま、埃をかぶっていた。

半年間、動かした形跡がない。

 

新しい彼女を、てっきり連れて来ていると

思っていたのだが、

恐らく彼女の家の方に行っているのだろう。

職場から電車に何駅も乗らなければ

ここへは来れないし、

何しろ私のものがたくさん置いてある。

彼も都合が悪かったのだろう。

 

私にとっては、ありがたかった。

 

冷蔵庫は、ちゃんと食べているのか

心配なくらい、空っぽだった。

そこへ、彼の好きだった食べ物を

たくさん入れて置いた。

どれも懐かしかった。

蟹味噌、彼、本当好きだったなあ。

アボカドも大好物だった。

キムチとキュウリの浅漬け。

好きなビールや、缶チューハイも並べた。

 

ラーメンのストックの引き出しに、

彼が好きそうなラーメンを足して置いた。

お菓子も買い足して置いた。

 

付き合っている頃は、

いつもこうして、買ってきては

ストックしていたのだ。

だから彼が欲しいものもわかる。

その感じが懐かしかった。

 

私が置いていた食材で、

彼がもう食べなさそうなものは、

持って帰ることにした。

使わなそうな食器や、

私のキッチン道具も持って帰った。

 

化粧水やメイク落とし、洗顔など

私の使っていたものは全部持ち帰った。

 

とにかく掃除してなかったので

埃がすごくて、

いろんな場所を雑巾掛けした。

すべての部屋に掃除機をかけた。

喫煙コーナーも綺麗に拭いて、灰皿も洗って、

ためてあった食器もお鍋も全部洗って、

棚にそれぞれしまった。

 

ごちゃごちゃ物がいっぱいだった棚を片付けて、

台を拭いて、帽子やサングラス、

時計、煙草を綺麗に並べ直した。

 

台所の油も洗剤で拭いて、

排水溝やシンクも洗って、

ネットも新しいものに変えておいた。

 

洗濯機に入りきらないほどの

汚れ物があったので、

全部洗濯して、干した。

 

布団は、朝慌てて出たままの形だった。

掃除機で、髪やゴミや埃を吸い取って、

綺麗に敷き直した。

 

山のような畳んでない洋服を

すべて畳んで、積んで置いた。

 

トイレの掃除もした。

 

埃まみれのテレビ台を拭き、テレビを拭き、

ガラスのテーブルを片付けて、

そこに手紙を2通、置いた。

 

これで、私のできる最後のことは

すべてやった。完璧だ。

やりきったかな。

 

最後は、電気をひとつずつ消して、

部屋を出る時、深々とお辞儀をした。

ふたりの夢と未来が、

たくさん詰まっていた部屋。

 

ありがとう。

ごめんね。

 

私が引っ越してくる時のために、

彼がひとつ丸々空けてくれていた、

私のお部屋だけが、ガランとしていた。

部屋主が来るのを、

ずっと待っていた空っぽの部屋。

使われるのをずっと待っていた、

空っぽのクローゼット。

一度も使われないまま、

部屋主は去っていく。

 

ごめんね…。

 

いつまでもガランとしたこのお部屋を空けて、

私が来るのを

半年間も待っていた彼氏。

 

その間の、3ヶ月もの無職の期間。

彼が私との未来のために、転職し、

1ヶ月で失敗し、挫折して無職になった3ヶ月間。

 

私は自分の仕事に慣れるのに必死で、

ちっとも彼の相手をしていなかった。

彼を見ていなかった。

 

あれだけ大きいことを言って、

「稼いでやるから、待っとけ」って言いながら

あっさり転職一ヶ月でギブしてしまった彼を、

情けなく頼りなく思ったし、

私もイライラしていたのだ。

 

でも、そのすれ違いから、

何かふたりの間がズレてきてしまった。

そして、彼が新しい職場に就職した時も、

私はその隙間に気付かないままだった。

 

彼は、他の子を選んだ。

 

私を苦しめているのは、

きっとこの罪悪感と、後悔かも知れない。

 

鍵を閉めて、そのまま

サンタさんの

クリスマスカードと一緒に、

新聞受けに入れた。

 

これでもう、私がこのふたりの部屋に

入ることは二度とない。

 

さよなら。ふたりのお部屋。

あるはずだった、ふたりだけの生活。

ふたりだけの、未来。

結婚して、ずっと一緒のはずだった。

ごめんね。私が壊してしまった…。

 

結局、住むことのなかったマンションを

眺めながら、その場を去った。

いつも通りの慣れた道を、

いつも通り帰った。