深海の底で息を

生きること死ぬこと

断捨利ズム

 

断捨離を始めて二週間が過ぎた。

 

思えば部屋で倒れたあの日が、

私の精神状態の悪さのピークだった気がする。

別れてからの8月丸々、一ヶ月の記憶がない。

そして、8月30日ついに過呼吸で倒れた。

「助けて。」

誰に対してかわからんが、そう思った。

そして、自分で自分を助けることにした。

 

あれからさらに半月後の9月半ば、

ようやく少しだけ精神が安定してきた。

調子がよい時に、少しずつ

何かを始めることにした。

 

難しかったのは、同居している家族の

理解を得ることだった。

倒れた直後は、とても心配していて

毎日、明け方にこっそりと

私の寝室を覗きにきていた。

私は心が痛んだ。

自分の娘が何か夜中にひとり

間違いでも起こさないか、

心配していたのだなあと思う。

無理もない。

 

そんなことまで親に心配をかけてしまう自分が

本当に情けなくなった。

 

そもそも私は失恋により、

鬱状態になったのではなく

それが引金になってしまって

かねてから抑圧していた鬱が

再び呼び覚まされてしまった形だった。

 

しかし、鬱からの早期脱却に焦るばかり、

失恋に至る原因になってしまったとも言える、

部屋の片付けを最優先させるべく、

片付けなど到底出来ない精神状態のまま、

無理に片付けに取り掛かってしまったのだ。

 

強いストレスを抱えたまま、

片付けられるほどの判断力も戻らぬまま、

近くの段ボールからとりあえず、

どうにかしなくてはと動かした。

 

動かなくては、このまま永遠に

何も変わらないのだ。

頑張れ、頑張れ…私。

無理矢理、自分を鼓舞した。

 

今振り返って考えると、

あんな精神状態で片付けなど出来るはずもない。

片付けは、咄嗟の「いる、いらない」の判断力、

そして捨てる決断力も必要な

案外、頭を使う作業なのだ。

 

精神を病んでいる人は、

判断力、決断力そのどちらも

著しく低下した状態であるから、

片付けに最も不向きな状態だと言える。

 

そもそも、その精神状態が

荒れきった部屋を作り出した元凶なのだ。

 

途端、積み上がっていた段ボールが

音を立てて崩れていった。

本がドドドドと雪崩を起こした。

 

仕方なく、ベッドに腰をおろして、

その散らかり放題の部屋をぼんやり眺め、

黙って、完全に途方にくれた。

 

突然、堰を切ったように

胸の奥から苦しさがこみ上げてきて、

そのまま涙がボロボロこぼれはじめた。

自分は駄目な人間だ。

自分には何ひとつない。

いい歳してまだ親に迷惑ばかりかけて、

こんなゴミの掃き溜めのような、

小さな世界のままの部屋にいるのに

いつまでたっても

何ひとつ変えることができない。

 

これじゃ高校の途中で不登校になって

周りをすべて断絶して、

家に引きこもったあの頃と

なにひとつ変わっていない。

 

20年も経ったのにまだ、実家すら出られず

巣からいつまで経っても飛び立てないで 、

親にずっと親としての心配や苦労をかけたまま。

 

結婚もできず。孫の顔も見せてやれず。

胸を張れるような定職もない。

いい歳して貯金すらない。

 

自分は本当に駄目だ。惨めだ。

どうしてしっかり生きられないのだろう?

悲しい。私はゴミのように捨てられたのだ。

無価値な人間なのだ。

そしてこの明らかに酷い有様の

散らかりきった小さな部屋から、

一歩も抜け出すことができないのだ!

 

もう、こんなに歳をとってしまった!

取り返しのつかないくらい!

何ひとつ手にしないまま!

私には何の価値もない!!

 

あんなに一緒に過ごしたはずの

彼氏にとっても私は結局、

すぐ捨てられる程度の無価値な人間だったのだ!

 

考えれば考えるほど、

気が狂いそうになった。 

途端に、動悸が波打ち、

呼吸が荒くなった。

声を出して泣きながら、呼吸困難になった。

完全にパニックを起こしたのだ。

そのまま、嗚咽しながら我慢した。

父にばれないようにしなくては、

そればかり考えた。心配をかけてしまう。

 

父が遠くで掃除機をかけている音がした。

幸い気付かれないだろう。

そう思っているうちにも、嗚咽は止まらず、

呼吸は乱れて酷くなる一方だった。

次第に貧血を起こして、手足が痺れて

冷たくなってきた。

 

やばいな、そう思った。

どうしよう。

父を呼ぼうか。苦しい。

助けて。でも…

 

父が掃除機を片付ける音がする頃には

私は床に倒れこみ、

動けなくなってしまっていた。

体全体が硬直してしまい、動かない。

指先は完全に固まってしまった。

気道も狭まってきた。苦しい。

 

なんとかドアに手を伸ばした。

倒れたままか細い声で、父を呼んだ。

「お父さん…。やばい」

 

父は驚いて「どうした?」と聞いてきた。

「発作が…」倒れたまま、

それ以上何も言えなかった。

本当に苦しくて、このまま死ぬのかと思った。

 

父は、「大丈夫か?」「どうした?」と

いつもと違う私にうろたえて、

背中をさすってくれた。

しばらくすると、母も帰ってきた。

 

「なに、どうしたの?!」

母はすぐに異常を察した。

「発作を起こしたみたいだって」

 

母はすぐに水を持ってきてくれたが、

私は涎を垂らしたまま身体が硬直してしまい、

倒れて縮こまったまま少しも動けず、

飲める状態ではなかった。

 

救急車を呼ぼうかと聞かれたが、

喉がどんどん塞がっていく感覚で、苦しく

到着するまで持たないだろうとさえ思った。

 

ビニール袋を口に当て、

落ち着いて呼吸していたら、

本当に少しずつ、手足の痺れがとれてきて、

冷たかった手先も動き始めた。

 

母はホッとしていた。

「よかった、少し動いてきたね」

涙声だった。

 

そのまま、私は自分が

涎と鼻水を垂らし倒れたまま

両親に心配そうに見守られている姿が、

あまりにも惨めで、情けなく

両親に申し訳なさすぎて、

いろんな堪えていたことが

いっぺんにこみ上げて、悲しくて

両親の前で、わんわん泣いてしまった。

 

両親の前でこんなにも大声で泣いたのは、

大好きな人が突然死んでしまった

7年前のあの日以来だった。

 

泣きながら「ここから出たい」と言った。

こんな生活から抜け出したいという意味だ。

汚過ぎる部屋で、どうにもならず

わあわあ泣いた。

 

ここ何年も、どう頑張っても

片付けが出来ないのだ。

あんなに几帳面で潔癖過ぎる自分が

ある時を境に一切、

片付けできなくなってしまった。

部屋は散らかる一方だった。

 

どんなに散らかってきていても、

無気力で、片付ける意欲が湧かないのだ。

とてもおっくうで、

洗濯物をタンスにしまうことすらできず、

その辺に山積みにしていく始末。

 

昔の自分なら考えられないのだ。

タンスの中の物がキチンと同じ方法で畳まれて

綺麗に並んでないと嫌だったはずなのに。

 

思えば、それが崩れ始めた頃から

すでに精神が少しずつ蝕まれ始めていたのだ。

 

どこにしまうべきか、

いるものかいらないものなのか、

判断も出来なくなってしまっていた。

考えようとすると、頭が傷む。

ぼーっとする。

 

部屋はみるみるうちに散らかった。

しかしそれすら、どうでもよかった。

 

そんな状態の私が、

彼氏との同棲ですぐに引っ越せるはずがない。

 

彼は、簡単なはずの引越し準備が

なぜそんなに進まないのか、

怪訝に思っていた。

私が本当は同棲に気乗りしていないのでは?

ついには、そんな疑念まで持ち始めた。

一緒に住むはずだった、

一緒に選んだふたりの部屋に、

半年間も彼を一人ぼっちにした。

私たちの関係は、いつの間にかギクシャクしてしまった。

 

私の、「片付けなくては」

「引越し準備をしなくては」と、

実際の精神状態は、

著しく乖離していた。

片付けなんて出来る精神状態ではなかった。

 

しかし、誰よりも自分自身が

そんな自分を「怠けものだ」と責めていたのだ。

心のどこかで。

自分が一番、自分の病気に対して

理解が足りていなかったのだと思う。

倒れるまで気付かなかった。

倒れるまで我慢して、やっと気付いたのだった。

 

倒れた後は、妙に冷静だった。

心に覚悟が決まったのだ。

「ここから、這い上がるしかない。」と。

もう今の状況には耐えられない、限界が来た。

這い上がるしかない。

 

私は、自分を冷静にするために、

まずは目に入るものをどんどんと

違う部屋に運んで、見えないようにした。

少しでも部屋をスッキリさせるため。

そうして自分を少しでも落ち着かせるため。

 

すると、効果はてきめんだった。

部屋が少し片付くのと同時に、

自分の心も少し落ち着いたのがわかった。

 

そして、壊れたチェストを処分することにした。

新しいチェストをじっくり選んだ。

中古だが木製の、温かみのあるチェストだ。

新しいチェストはすぐに届いた。

部屋に新しい風が入り込んだ時、

途端に空気が変わった。

私は少し、先へ進めた気がしたのだ。

 

新しいチェストに、新しい置物も置いた。

可愛くて少しとぼけていて、

とっても癒される、鳥の置物。

 

気分が沈む日には、ラベンダーオイルを

ティッシュにふくませて

枕元に置いた。

精神を落ち着かせるのに、

植物の香りはとても効果的だ。

 

そうして、毎日毎日、

ともすれば焦る自分を励ましながら、

「大丈夫、今日も少しだけ進んだ」

「大丈夫、大丈夫。」

そう言い聞かせながら、過ごした。

 

まるでナメクジの歩みである。

進んでいることがわからないくらい遅く、

目に見える成果も少ないため、

ストレスも溜まった。

 

そんな時も、

「昨日より今日は、少しだけ進んだ。」

「少しだけ、よくなっている。」

そう何度も励ましながら、過ごした。

新しい家具をいろいろ探しながら、

未来へ希望を持つ習慣をつけた。

 

部屋は少しずつ、変わってきた。

 

私が今向き合っているのは、

過去の自分である。

 

私に今必要なのは、

過去を断ち切って、

今を大切に生きることである。